専修大学松戸中学サッカー部は、2000年中学設立時から活動。

 

月・水・土が通常活動日であり、1時間半~2時間のトレーニング。

火・木・金は活動が出来ないため、自主トレーニングのメニューを渡して

自主的に活動しています。日曜日・祝日などは練習や練習試合を入れています。

また、中学3年生は夏以降に高校の練習参加、練習試合参加をしています。

早くから高校練習に合流できるところは中高一貫でしかできない取り組みであり、

一番能力が伸びる時期にサッカーを続けることが出来るので選手にとって良い環境になります。

 

 

 

 Deporatare  Club 

※「Deporatare Clubは、スポーツの原点に戻り、自主的、自発的なスポーツ活動をしようという想いがこもっています。創造性を大切に、選手がのびのびプレーするサッカーを目指します。

  これは中学サッカー部独自のスローガンです。

 

 

                                 本校サッカー部では以下のことに取り組んでいます

 

    Players   First

 

 ①サッカーのセオリーや基本技術の習得

 ②サポートポジション、ディフェンス優先順位、球際を意識したグループ戦術

 ③駆け引きを意識したオフ・ザ・ボールの質

 

 

ジュニアユース年代からユース年代への架け橋を目的に練習します。

そのため、グループ戦術を基本に練習内容を組み、その選手の判断を鍛えます。

練習中から厳しい姿勢を求め、激しいボディコンタクト、プレーインテンシティ、プレーの意図を考えさせ、

選手が選択したプレーの結果で変わる指導ではなく、選択した時点でなぜそうしたのかを問うていきます。そのため、練習内容は常に判断を強いるもので構成し、考える練習をしていきます。

 

週に3回の部活動で、1回につき約1時間半のトレーニングの中でも意識を持って取り組めば大きく変わり、やがてその成果は学習面でも活きてきます。

選手である前に学生ということを忘れずに「勉学」の面もしっかりやってもらいます。

そのため、合宿ではサッカーばかりでなく、勉学にも取り組み活動しています。

 

専修大学松戸高校サッカー部には素晴らしい環境がそろっています。

そこで活躍できる選手育成を第一に考え、闘う姿勢と技術、サッカーに対する姿勢、サッカーの考え方を指導していきます。

 

 社会人になって足元にボールがある環境ならば、これほどうれしいことはないでしょう。

しかし、多くの人がそうではない以上、ここでの活動を通して人としての核となるものを作ってあげたい思いです。主に自主性を重んじ、選手自ら動けることのできる育成を目標にして指導しています。

選手の心を預かっていることを忘れないスポーツ指導をする。結果だけを追うのでなく、過程を大事にできるチーム作りを考え、要求する前に選手から要求してくるような姿勢を促します。

指導者にやらされるのでなく、自ら考え創造していくのがスポーツであり指示通りに動くことがすべてではありません。

 

 

~体育とスポーツ~

 

 1875年 東京大学に赴任したイギリス人教授のフレデリック・ウィリアム・ストレンジが、『Outdoor Games』という本を出版し、陸上競技(競走、幅跳び、高跳び等)、水泳(クロール、背泳ぎ等)、ホッケー、フットボール、クリケット、野球、テニス……などを、「スポーツ」と称して日本に紹介し、この本のタイトルが、『戸外遊戯法』という題名に翻訳され、「ゲーム」も「スポーツ」も「遊戯」という訳語が当てられ、理解されるようになりました。

 しかし同時期、それら各種のスポーツ(特に陸上競技、体操、水泳等)が、兵隊の訓練や、兵士予備軍としての男子学生生徒の心身を鍛練する手段として活用されるようになると、「遊戯」という訳語では不適当ということになり、やがて「運動」とか「体育」という訳語が用いられるようになり、世の中に軍国主義の色合いが濃くなるに連れて、我々日本人のあいだに、「スポーツ=体育」という訳語が定着するようになりました。

 

 第二次大戦が終わり、戦後民主主義の時代になって軍国主義の世の中ではなくなっても「スポーツ=体育」という言葉は残ることになり、また他に適当な日本語が存在しなかったのです。我々日本人のなかには、21世紀になっていまだに、「スポーツ=体育」だと思っている人も少なくないのではないでしょうか。

 もちろん体育は、直接的には軍国主義とは何の関係もない、知育、徳育と並ぶ、青少年への教育の一種です。英語では、physical education―― 文字通り、身体教育のことで、教育だから、義務が伴う。少々辛く苦しいことでも、指導者はやらせなければならないし、学生や生徒はやらなければならないと考えられています。そうして身体を鍛えなければならないという考えです。強い兵士を目指すのではなくても、立派な大人になるためには、それが絶対に必要というわけではないが、やっておいたほうが(やらせておいたほうが)ベターだと多くの人が考えているのです。

 一方スポーツは、元々の語源が、ラテン語のデポラターレ(deporatare)。日常生活の労働から離れた、遊びの時空間。余暇、余技、レジャーといった意味であり、その言葉が、中世にはディスポルト(disport)と変化し、disport(港・持ち運ぶ)も基本的に「離れる」という意味で、やはり日常生活の労働から離れることを意味します。敢えて言えば、「身体を用いた非生産的遊びの時空間」といったところでしょう。

 その言葉がスポーツsportsと変化し、そこには、冗談、慰み、気晴らし、戯れ、遊び半分……といった意味も加わり、あくまでも自発的で、命令されないことが、スポーツの大原則と言えます。

 これで「体育」と「スポーツ」という2種類の言葉が、まるで意味の異なっている言葉だということが理解されると思いますが、我々日本人は、今なお両者をあたかも同じ意味の言葉として、「体育」を「スポーツ」の翻訳語として用いているのが現状です。

 1964年に行われた東京オリンピックの開会式の日(1010日)を記念して定められた国民の祝日(現在は10月第2月曜)は、「体育の日」と呼ばれていますが、英語の表記では、Health Sports Day. つまり健康とスポーツの日です。

 また、国民体育大会は、英語では、National Sports Festival. そして、日本体育大学の英語名は、かつて、Nippon college of physical educatin としていたのを、最近、Nippon Sport Science University に改められましたが、日本語名は、日本スポーツ・サイエンス大学とはならず、日本体育大学のままです。

 これら「スポーツ」と「体育」という明らかに誤訳と言うべき言葉のあいだに生じる齟齬は、具体的な問題として表面化するまでになりました。

 あくまでも誰もが自発・自主的に行うスポーツよりも、小中高大学の体育教育で実施されている、やらせなければならない体育(教育的スポーツ)のほうがはるかに浸透している我が国では、スポーツ(体育)は指導者の命令に従って行うものだという「常識」が蔓延しているのです。

 そして指導者の指示と命令に従い、それを黙々と実行することが、スポーツマンに求められる「責任」であり「誠実さ」であり「正直さ」であり、それによって「忍耐力」や「礼儀正しさ」が養われるという教育(体育)が、体育として行われるスポーツを通して実行されています。

 その課程で根本的に無視され、排除され、忘れられるのは、スポーツの根本にある「自発・自主性」です。自発・自主的に参加し、自発・自主的に考え、自発・自主的に動く……。それがスポーツのはずであり、自発・自主的にスポーツを行えるよう助けるのがコーチの役割のはずなのに、日本の指導者は、そのような自発性・自主性を伸ばすことを教育とは考えず、自らの指示(強制)に従うことを教育だと思い込んでいる人が多いのです。

それは、監督(先生・指導者)のサインに100パーセント従うなかでゲームが成立するユース年代の様々な部活動教育における大会を見ればよくわかると思います。さらに、スポーツと体育をイコールで結び、スポーツを体育(身体を鍛える教育)の世界だけに閉じ込めた結果、知育としてのスポーツ教育も、徳育としてのスポーツ教育も忘れ去られてしまうことになりました。

 

 ベースボールの歴史を学べば、それはアメリカの歴史になり、アメリカ人の思考法を学ぶことにもつながり、フットボール(サッカー・ラグビー)の歴史を学べば、それはヨーロッパの歴史を知ることになり、南北アメリカの気候風土の違い、歴史の違いを学ぶことにもつながります。オリンピックの歴史を学べば、古代ギリシアの歴史と近代ヨーロッパの歴史、さらに現代世界の国際関係を学ぶことになります。そしてスポーツの誕生史を辿ると、それが民主主義制度の成立と深く関わっていることも学ぶことができます。しかし、スポーツを体育という一つのジャンルに閉じこめておく限り、スポーツの持つそのような文化的知育的要素は、その存在すら誰も気づかず、活用しようという発想すら生まれなくなるでしょう。

 「スポーツ=体育」という捉え方をしているかぎり、身体を鍛えることや、試合に勝つことばかりが優先され、スポーツという文化の持つ豊かさは、ほんの一部しか青少年の教育に活かされなくなります。また、長いあいだ「スポーツ=体育」という教育のなかで育った指導者は、「スポーツとは何か?」という問いに答えることもできず、そのことを考えようともせず、スポーツと体育の違いについても明確な回答を持たず、学生や生徒たちに、ただ体力を付けさせ、技術を身に付けさせ、試合に勝たせることに専念する勝利至上主義を掲げる指導者が多いのは残念です。

 実際に、部活動でも先輩のいうことに従うという独特の体育会系風潮でもってスポーツに取り組むと、選手のプレー判断が先輩の一言で潰されてしまうこともありますし、上記に記したような指導者によって選手の判断力を潰してしまう恐れもあり、ここで述べた上下関係での被害も実は大きいのです。

 

 本来であれば、学校は勉強をするところで、放課後は地域に散らばり、それぞれの所属するチームでスポーツを楽しむという方が理想の姿だと考えます。しかし、日本代表監督も務めたイビチャ・オシムは日本の部活動制度は素晴らしいと言っています。それは、選抜された限られた人でなくクラブ以外にもスポーツを楽しめる、学べる場所があり、しかもそこからプロに行く道を作っている要素もあるという理由です。クラブで選考に残れなかった選手から第2第3の選手を育成していくシステムが部活動だと言っています。オシムが日本の部活動の中身をすべて知っているとは思えませんが、上記のような体育教育延長上の部活動の姿を見たらどうでしょうか。また、オシムはこうも言っています。日本には高校選手権という大成功している大会があり、毎年ここから優れた選手が出てきている現状を考えると部活動制度と選手権大会のシステムもこれまた素晴らしいものである。行き過ぎた推薦制度で選手を選抜し、学校の名前で大会に出て勝利至上主義に陥りがちな部分であったり、それによってどれだけの選手がつぶされてしまうかという部分を抱え、スタメンからもれた第2第3のJ選手が選手権の観客席を埋めているような偏った状態が正直、選手権大会にはあるのではないでしょうか。そろそろ、学校教育とスポーツ教育に隔たりを作り、スポーツ選手育成を考える時代に来ているように個人的には感じます。

 

 矛盾する部分もありますが、しかし現状でできる事を考えると部活動教育の中でしっかりとした考え、哲学のもとでスポーツ教育をしていくことはできる事であります。そんな思いをDeporatare  Clubに込め、中学サッカー部では活動しています。

 

 ヨーロッパでは週に3~4日、ドイツでは週に2日、2時間程度のTRをしています。日本では部活動で毎日長時間のTRをするところが多いです。それは、残業に見られるように長くやること・耐える事に美徳を感じる風潮が日本にあるからです。最近ではブラック部活動とまで言われるほどです。また、選手の意識も異なります。サッカー研修で、ヨーロッパの選手を教えた時にまず、TRのオーガナイズをしっかりと伝えないと選手から「どういう意図のTRなのか」「無駄なことはやりたくない」などと意見が出てきます。パスの意図を聞いてもこういう局面だったからこういうプレーを選んだと明確に答えます。しかし、日本選手は言われたことをやるという風潮が強く、言われたとおりに動き、意図も考えずにひたすら同じ行動を繰り返します。パスの意図を聞いてみても、指導者の目をじっと見つめたまま、指導者の思う正解を探している様子です。失敗したくない、恥をかきたくないという思いが先行されてしまいます。大人がいうことが絶対という幼い頃からの文化がそうさせてきているのでしょう。それを考えると幼い頃に感じる大人の絶対的な教えとは、親の道徳心・学校の教科「道徳」ではないでしょうか。日本代表監督も務めたトルシエが言っていた真夜中の信号機という話が印象的です。それは、日本人は真夜中、交通量が全くない中でもきちんと信号機を守るといった話です。もちろん、信号を守ることは法律上、道徳上正しい行為です。しかし、トルシエにはその行為が不可解に思えたのでしょう。安全が確保されているのであれば信号を守らなくても判断してわたってしまえばいいのではないか?と思ったんだと思います。日本にはそういう場面が実は用意されていて、それは真夜中の黄色点滅信号です。失敗させないように周りが整理してあげるのも日本人の自立成長速度を妨げている要因だと感じます。裕福であり、不便さが故の工夫もなかなか日本では実践できません。過剰なサービスすら気にならなくなるほどです。そのために自分で判断し行動する機会が社会全体からなくなってきているのではないでしょうか。故に失敗をせず苦い経験もせずに大人になるので、結果でしか評価が出来ずに過程を褒めたり修正する風習がないのです。高度経済成長期の日本は素晴らしい面もありますが、短期間に効率よくというテーマが現在には合わず、様々なところで悲鳴をあげているような気がしてなりません。

                                                                  (参考 Camerata di Sport)

 

 最後に、北野武の『新しい道徳 「いいことをすると気持ちがいい」のはなぜか』(2015 幻冬舎)に興味深いことが書いてあります。道徳とはそもそもどういうものなのかを考えれば、こうした日本人の習慣も見直す機会になります。大人の求める解答を探す子どもを育成するよりも、自分で考え判断する子どもを育成することが人間的にもスポーツ教育にも大事なのではないでしょうか。「個人の自立にとって必要な道徳」と「共同性の存続にとって必要な道徳」の2つがあることも教えていかなければ矛盾に満ちた道徳ということになります。

 

〈正直に生きるとか、みんな仲良くするってことを突き詰めたら、どうしたって商売とか経済活動を否定しなきゃいけなくなる。(中略)南北問題にしても、結局は誰かが儲けりゃ誰かが損するという話を、地球規模でやっているだけの話だ。(中略)人件費が日本の何分の一っていう国があるから、日本の経済は成り立っている。俺たちが豊かな暮らしを享受しているのは、どこかの国の貧困のおかげだ。その貧乏な国を豊かにするためには、日本はある程度、自分たちの豊かさを犠牲にしなきゃいけないわけだ。

 そういうことを、学校の先生は子どもたちに話しているのだろうか。話している先生もいるかもしれないが、少なくともこの国では、そういう先生はあんまり出世しないだろうなあとも思う。そんな状況で、子どもに道徳を教えるってこと自体がそもそも偽善だ〉

そんな「偽善」の極みが、いじめの問題だ。いじめ対策から端を発した道徳の教科化だが、ものすごく単純な話で、子どもたちに友だちと仲良くしましょうっていうなら、国と国だって仲良くしなくてはいけない。子どもに「いじめはいけない」と教育するなら、国だってよその国をいじめてはいけない。武器を持って喧嘩するなんて、もってのほかだ〉

〈「隣の席のヤツがナイフを持っているので、僕も自分の身を守るために学校にナイフを持ってきていいですか」って生徒が質問したとして、「それは仕方がないですね」と答える教師はいるだろうか。いるわけがない。

 だとしたら、隣の国が軍備拡張したからって、我が国も軍備を増強しようっていう政策は、道徳的に正しくないということになる。いかなる理由があっても喧嘩をしてはいけないと子どもに教えるなら、いかなる理由があろうと戦争は許されないってことになる。(中略)ところが、大人たちはどういうわけか、そっちの話には目をつぶる。子どもの道徳と、国家の道徳は別物なのだそうだ。戦争は必要悪だとか、自衛のためには戦争も辞さぬ覚悟が必要だなんていったりもする〉

 

 〈大人になったら誰にも邪魔されずに一日中思う存分ゲームをするのが将来の夢だと書いても、先生は頭をなでてくれるんだろうか。そんなわけないのは子どもでもわかるから、当たり障りのないことを書く。お年寄りに席を譲ったら感謝されたのがいちばんうれしかった、とかなんとか。嘘をつくなといいながら、嘘をつけと強制しているようなものだ。古くさい道徳を子どもに押しつけたって、世の中は良くならない。

そんなことより、自分の頭で考え、自分の心で判断できる子どもを育てる方が大切だろう。

そのためには、まず大人が自分の頭で考えることだ。道徳を他人まかせにしちゃいけない。結局のところ、道徳は自分で身につけるものなのだ。どんな道徳を身につけるかは、人によって違うだろうけれど。道徳がどうのこうのという人間は、信用しちゃいけない。〉

 

 

 

 

素晴らしい仲間とともに、時間を過ごす。そしてかけがえのない友を得る。

サッカーを通じて仲間を思いやり自分勝手に行動せず、チームでカバーしながら動いていくことを学び、たくましく育っていくあなたの入部を期待して待っています。

                                 

           「結果は一瞬、経験は一生もの」

 

 

【保護者の皆様へ】 

お子さんの成長を一緒に見守っていきませんか?

ここでの部活動を通して、得られるものは一生ものです。

ぜひ、興味を持たれましたらスタッフへの問い合わせよりメールをください。

 

                                                                                                                  専修大学松戸中学校サッカー部顧問